皆様、何だかとっても寒くなってきましたね〜。いかがお過ごしでしょうか。
先日の講座「真の愛を学ぶ」でサティヤーが体験談を話してくれたことを皆様にもお伝えしましたが、内容をサティヤーが文章にまとめてくれたので、ここにご紹介させていただきます。
私もそうですが、誰もが始まりってあるんですよね。
サティヤーもいいと思ったことを素直にトライしてきたことが文章を読むと分かります。
ぜひご覧ください(^–^)
バクティ・ヨーガは、進むのが早い、最も容易いなど言われますが、私にとってはとても難しく感じていました。
バクティ・ヨーガに必要なのはただ一つ「神を愛すること」それだけです!!と、さも簡単そうに言われますが、まず
「神って何?!」
「よく分からない存在に恋することってあり得るの?!」
「恋って知らない間に落ちてしまうものでしょ。意図的に、この神を愛してくださいと指定されてもなぁ…」
といろいろと疑問に思うことばかりでした。
私は神の存在をどう理解していいのかは分かりませんでしたが、神に恋い焦がれている人たちには憧れがありました。恋している人っていつもきらきらしていて潤いがある感じしませんか? 反対に恋していないと何となくカサついた感じ。ただ単純に「恋しててうらやまし〜」という思いで見ていました。でも見ているだけでは恋に落ちないんですよね。
そこで、私がやってみたことは、真似をすること。
バクタ(神を愛する人々)は神を思い、時に笑い、時に泣き、感情豊かに愛を表現します。また、それは日常の行為の中にも現れています。神を喜ばせるために自分の人生を捧げようとする姿は、私にはとても美しく見え、憧れる生き方でした。それを見よう見まね、とってもぎこちなくですがそのまま真似してみました。
「神が喜ばれるように行為したい!」と言われると、「私も神が喜ばれるように行為したいです!」と言います。
「こんなことでは神に対して申し訳ない」と涙目で言われれば「本当に申し訳ないです」と涙目でまるでオウム返しように言っていました。
もちろん心では「・・・?本当?」「・・・えっ、どの辺が申し訳ないの?」と思うこともたくさんありましたが、ただ見ているだけでなく、一緒になって言ってみる、行為を真似してみることで、少しずつその人の真意を感じることができていったように思います。自分で言って、それを耳で聞いてみると、不思議なもので、「あーこの人はこんなにも神という存在を大切に思っているんだな」と感じることもありました。そしてそこまでその人を突き動かしている神っていったい何者なんだろう、どうしたら私も同じような思いを持てるようになるのかな、など神について考えることが多くなっていったように思います。
真似をするときに一つだけ気をつけていたことがあります。それは、真似をするときに「私」を持ち出さないことです。「私は人前でそんなことを言うキャラじゃないから」とか「私はまだ神が分かっていないから」、などなど、「私」を持ち出すと人の真似ってなかなかできないものです。でも、今の自分の範囲の中だけでやっていてもなかなか恋に落ちないのであれば、いっそのこと、そんな「私」は横に置いておいて、まず素直に真似してみるということを決めていました。バクタに憧れた私は、まずはバクタのまねっこから始めたのです。

バクタと言えば、偉大なバクタの一人にシュリー・ラーマクリシュナがいらっしゃいます。彼は神の化身ですが、カーリー女神を信仰し、女神を実際に見たいという思いでひたすら修行を積み、ついには見神したインドの聖者です。
あるとき、私に大切な使命が与えられました。それは、私のヨーガの先生の御聖誕祭でカーリー女神を讃えるうたを歌うことです。それは、私一人が歌う訳ではありませんでしたが、リードといって歌を引っ張っていく役割をいただいたのでした。そのことはとても嬉しかったのですが、私の中で一抹の不安がありました。
タイトルは「Jai Ma!」
「女神様万歳!」とでも訳すのでしょうか、とにかく女神を讃えるのです。でも・・・・
「女神ってなに!? カーリーって?!」
またもや私の頭には「???」だらけ、これでは歌うことができません。何でもないときなら何も考えずに気持ちよく歌ったと思うのですが、とても大切に思っているヨーガの先生に捧げる歌を歌うときに、心に矛盾があることが、どうしても気がかりでした。本心で女神を讃える気持ちがないのに、こんな歌を歌うのってどうなの?「これはまずい!」と思った私はなんとか女神に近づこうと思い出しました。そして、そのときにもまた「真似をすること」を始めました。
今度は、偉大なバクタ、シュリー・ラーマクリシュナの真似です。ラーマクリシュナはカーリー女神を「Ma、お母さん」と呼び、実際に神像にお花を捧げたり口に食事を運んだり、着替えをさせたりして、まるで生きているかのように接していました。そしていつも話しかけておられたのです。私は、まず形から入る方なので、神像を買いました、そして毎日その神像に「お母さん」と話しかけることから始めてみました。
「お母さん」
とぎこちなく呼んでみるものの、実感はゼロ。
「うーん、これのどこがお母さんなん?!」
「お母さん怖すぎやろ」
などなど、思いは尽きません。それでも私は毎日毎日話しかけました。
「ただいま、お母さん、今日こんなことがありました」素朴に話すようになるのに、そんなに時間はかかりませんでした。むしろ、何も言わずに聞いてくれる存在がいるような気がして、本心をいろいろ話していました。また、シュリー・ラーマクリシュナ以外のインドの聖者がカーリーについて書いた詩を読んだり、カーリーに関して、質問している部分、聖者がそれに答える問答を何度も読み、お母さんにつながるものが一つでもないかと躍起になって探しました。
御聖誕祭はどんどん近づいてきます。私は少しずつ焦りだしていました。
「お母さんが分からない、どうしよう…」
当日までに本心で讃えられないのならどうしたらいいのか…追いつめられ、私は四六時中カーリーのことを考えていました。
「お母さん、どこにいらっしゃるのですかー! 私、どうしたらいいのですか!!」
歌の練習の時は「お母さん、どうか讃えさせてください」と祈り、すがるような気持ちでいました。そんなある日、それは突然訪れました。歌の最中に「あ!お母さんが来た」それはまぎれもなく、私の中の確信でした。
「お母さん、いはるわ、いっつもいたはる、いなかったことなんか一度もなかった」
それは、当たり前のことのようにストン!と私の心の中に落ちました。そのとき、私の神像は激しく腕を振って、まるで「ちゃんと聞いていますよ」と言われているようにも見えました。我を忘れて、必死で歌っていたときのことでした。
そのことがあってからは、女神である母の存在は私の中でとても近い存在になり、本心で「Jai Ma」と讃えることができるようになりました。今は外見など見えているようで全く見えないような気がします。外見でなく、母の本質にほんの少しですが触れたからかもしれません。
私の好きな聖典の言葉で「神は一歩近づくと二歩も三歩も近づいてくれる」という言葉があります。まさに、近づこうとしたその瞬間、私よりももっと凄い勢いで近づいてくださったような気がしました。本当はいつもいてくださっているのです、ただ私が、「私」を捨てたときにスルリと母は私の胸に来てくださいました。
神と私との間で交わされたことは、説明してもなかなか実感を伴って伝わらないかもしれません。でも私にとっては本当にリアルに、それだけが確実なものとして残っているのです。ほんの少しの経験ですがそれによって私はもっともっと神に近づいていきたい!と強く思うようになっていきました。そして、時間とともに愛する神の喜ばれるように、ただ、それだけのために生きたいと思うようになっていったのです。
きっとそれぞれの人が、それぞれの経験と味わいの中で神との関係を築いていくのだろうなぁと思います。それはどれも比べようがなくて、とても甘美なものだと思います。また、みなさんの経験も聞かせてくださいね。
サティヤー